昭和40年11月14日 夜の御理解



 起きてくる事は一切が神様のご都合であり、おかげである。信心をしておって、変わった事が起こってきたらおかげと心得て信心せよと仰る、その事だと思う。信心をさせて頂いておって、それは暑い事であろうが寒い事であろうが、ね、変わった事が起こって来たらおかげと心得て信心せよ、信心をしておるのにどうしてこの様な事がと、と言う様になったらもう信心が留まっておると仰る、留まったんじゃ成長がない、おかげも勿論そこで留まって居る様なもんである。
 ですから、信心させて頂いておって変わった事が起こって来たら、もう一切がおかげであると分からせて、それを神様のご都合とこう言うわけなん、分からない私ども凡夫では、ね、けども変わった事が起こったら、おかげと心得なきゃ、病気の事をお願いさせて頂いた、そしたら帰ったらかって熱が高くなっとったとか、もうおかげ神様の働きが始まっとるんだと言う、例えば頂き方をしなければならん、という訳なんですね。
 なかなか、そこらへんが稽古をしていきませんと、中々垢抜けしてスキッとして頂けん、そこんところを神様が私共が、まあ頂きよいようにです、手心を加えて下さる様な感じが致します、ね。段々信心が高尚になってまいりますと、もう本当に矢継ぎ早に、言うなら、泣き面に蜂と言った様な事が、そのそれでも元気な心で、有り難く受け抜いていくと言う様な信心を、段々出来て来る様になると、また別ですけれども。
 段々信心が分かってきて、少し有り難い有り難いというておるから、神様がどのぐらい有り難いのかとお試し、試しなさる場合もあろう、同時に片一方には本当に難儀な事が起こっておるかと思うと、片一方には神様のおかげと言わなければ、おられないと言うほどのです、おかげを片一方では見せてくださるから、どうやらこれも神様のご都合に違いはないというて、その信心を進めて行けれるわけなんです。
 昨日、田村さん、毎日ああしてお参りされて、昨日は現場の方の当番に当たっておった。それで13日会にも参加したいと言うので丁度三時ぐらいきて、まあ体験発表でもされたおられたようにです、本当にその、もう有り難いわけなんですね。昨日もお届けしておられました。先生、本当にもうこうやって様々な事、難儀な事が続いておりますけれども、神様は片一方にはちゃんと慰めて下さる様に。
 昨日も私ここから帰りましたら娘が、うちは二、三日の内に私の写真が新聞に載るよちいうてからいうそうです、どうしてからやちうたら、新聞社がその写真を写しに来たと言う学校にね。だから、私の写真が載るに違いって、何か作文かなんかが大変優秀で中学校から二名ですかね、選ばれて、今日の新聞に載っておりました。小学校から一名、中学校から一名のですね、あれはもう大衆道徳かなんかと言った様なテーマで書いている、もう堂々たるその事を書いてあるんですね。
 子供が見た道徳、子供が見た大人の道徳の貧しさ、まるっきり教育の立場に、いわばしつけの立場に立たなければならない大人がこれでよいのかと言うて、もう実に痛いとこをついているんですね、後からごらんになったら西日本についてますから、という風に申しておりましたが、どげなんこつでも書いとるか知りませんけれど。もう本当に、またこの人は数学なんかは、大学校なんだと言う教師が言うそうですね。
 あの中学校の教師じゃ勝たんそうですけん、だからもう、勿論他の学科も出来ますから、もう仕方もない家庭教師ではよりもかえってゆうこさんの方がいいというので五、六人くらいは、まあ受け持ってから自分の勉強の合間に教えておるです、というぐらいに頭が良くできるんですね、頭がいいんです。ですから、その難儀な中にもその娘の頭の良い、そう言う風にまあいわゆる、よい点数をとってきたり、褒められたりするもんですから、まあ親達の心を慰めてくれるわけなんですね。
 というて昨日そんな事を言うて喜んで帰っておられたんです、そしたら今朝からまた参ってきてからですもん、もう先生、昨日有り難いありがたいと思って帰った途端にぎゃふんち、もう家内がもう目はこう泣き切らしてとるげなもん、ね、話を聞いてみたら成る程な切らさないけん、やっぱ人間的に言うたらなるほどもうそげんもあろうという事がが起きてるわけなんです。
 皆さんもご承知のように、ああいう大きなゴム会社をしておられたんですけれども、それがもう没落して、そしてまあ信心になっていかれたわけなんですけれども、まあ、だいたいが派手な好みの方だったんですからね、とにかく、事務室のシャンデリアが五万円もうその当時はかかっておったというのがかけておられる、応接間にはもう紫檀(したん)の応接台に黒檀の茶だんすがおいてあるというように、その、まあ贅沢をした時代があったんですね、ここにお参りをする前までは。
 それが、まあ、とことん転落をされて、人に大変な迷惑をかけられて、まあ、現在の自分も行商程度の事をなさり、奥さんも最近では化粧品のセールスのような事をまあしておられるわけなんです。ところが昨日、その、その前の日にもとの、日本ゴムにでておられました、その偉い人らしいですけれども、その人たちの社宅に商いにいかれた。そしてこうてもろうて、その帰って来られたところが、向こうから来られたから電話。
 やっぱ来られたんでしょうか知らん、その奥さんが見えてから、田村さん昨日はあなたが来て頂いた時に私が横に買い物かごばおいとったでしょうがと言われるそうです。自分な気がつかんって、自分は知らんって、もうわずかな事じゃあるばってんが、あれに財布を入れておった、千五百円ばっかり金ば入れとったっち、それがもうあなたが帰りなさった後になくなっとるっちいうわけ。
 その後には誰ん来ちゃおらんとこう言うわけなんですね。まあ気分は悪うはしなさんなちいうてからいわっしゃるけれども、これは気分せんわけには、悪うせんわけには行くまいと私は思うわけですたい、そんな事を言われてから。それがこちらがじゃんじゃんしとる時ならさほど問題がないのですけれども、こちらがもう本当に言うなら難儀な時にあるもんですから、もう本当にあの人達からつけ込まれたと言う事なんです。
 しかもあんたがとっ、もう本当にひょっとし、てあんたげん買い物駕籠に入っとらんじゃったのち、言わんばかりのごと言われるもんですからね、それで今日は私はあのどこどこ様に、お参りするともぽくぽく宛らっしゃる所のあるけなげなけんで、そこに参ろうと思いよるっちいいなさるそうですもん、でそううりゃ行っておきなさい。なんなら私も一緒に言ってもいいちいうて家内が言ったそうですけれども。
 夕べはそのもうその事で一晩眠れんほどに、その家内が悩みましたとこういう訳です、もう、昨日は本当にここから有り難いありがたいと思うて帰りましたけれども、私も話を聞いて腹の立つやらで情けないやら、もう本当に、まあ、こんな場合どうしたもんでしょうかと言うて、今日はお届けがあっておったんです。そしたら私の心眼にですね頂きますのが、この総てという字の糸偏とったほうのほうですね。
 公と言う字を書いて心と書いてある。ははぁ、なるほど信心しておって起きてくる事は一切がおかげだなあと私は思うんですね。これを頂いてみて、ね。本当に有り難い有り難いと帰った、まあそげんなん事はくよくよするなと、ね、それこそ教祖の神様の御教えの中にもあるじゃないかと、もろうて歩かなければ乞食じゃないと、人のものをとらなければ泥棒じゃないと、ね。
 人が例え泥棒だと言うても、乞食だと言うてもです、腹を立てなと、神が顔をあろうてやると仰るからです、お前を試して受けよとたい言うぐらいなことが言えれりゃいんだけれども、本当に情けないこっちゃあるねっち、自分まで一緒に情げながって、一晩中眠れなかったとこういう訳なんです。しかし、聞いてみればまたそうでもあるです、ね、人間いよいよ落ちぶれて、それこそ袖に涙の掛る様な時にはです。
 人の人情もそう言う事になる。同等でお付き合いをしておった人がです、いかにもなんかまるっきり、その、ほんなこてあんたがもっていっとりゃせんのうと言わんばっかりのことを言われる、まあ、気分は悪うしなさんなこげなんこつをいうて、もう気分は悪うせんなちいうて帰ってんやけれども、それは気分しなさんなと悪うしなさんなというてもせにゃおられないような事柄なんですよ、
 けれども、さぁそれを一つ信心で頂かせて貰うとです、ね、信心をしてどの様な事が起こって来ても驚いてもならなければです、ね、成程変わって来た事が起きて来たのだあるからおかげと心得なければならんのであり。どうだろう私そのお知らせに頂きます様にです、公とは大きなという意味でしょう、ね、下には心と書いてある、結局私共の心の中に、その位な事は泳がせれるだけの、大きな心になれよと言う事なんです。
 次にその糸偏を頂くんですね、総てと言う事総て、総て信心させて頂いとる者の起きてくる事はです、糸偏はこれは神様との繋がると言う意味を頂くんですね、総て神様のご都合である、どう言うご都合であるかと言うと、お前が願っとる願いは大きなおかげを願うとろうがって。元の田村組にもましたおかげを頂きたいと願うとろうがと、その大きなおかげを頂かなければならんのに。
 このぐらいな事でもう一晩も眠られん様な小さい心でどうするか、そういう貧しい心でどうするか。もっと豊にもっと大きゅう、自分の心を持たせて頂き、しかも教祖の神様がはっきり教えておられるではないかと、乞食だと言うても泥棒だと言われても、もろうておかなければ乞食じゃなし、人のものをとらなければ泥棒じゃない。腹を立てる事はいらん、神が顔は綺麗にすすいでやるとこう仰るのであるから、ね。
 本当にそう言う様な事を思うたり、言うたりする人の事こそ気の毒であって、又はそう言う様な事が又おかげになって、先方に分かられる様に祈る事こそしなければならないけれども、本当になんて情けない事に、なって来たじゃろうかというて、情けながる事はいらんじゃないか、それではその位のおかげしか頂けんぞというて御座る様なもんだ。お互いの信心の上においても、様々に腹の立つこともある、情けない思いをする事もある、けれども、それが自分の心の中にです。
 いうなら泳がせれる様な事、それが気になって気になってたまらんと言う事では、はぁ私の信心、おかげはこの程度しか、まだ頂けんのだなあと悟らせてもろうて、愈々豊にならせて頂くおかげ、大きな心にならせて頂くおかげ、ね。ですから私共がです、まあ言うならばそれをひっくり返して言うなら、大きな願いをもっておる、しかも自分の事ではない公けの事、自分以外のものの事。
 まあ皆さんで言うならお広前のこと、御造営の事、隣近所の事と言う様な、公の事までも祈らせて頂いており、願わせて頂いておるのであるから、このぐらいな修行はもいう当たり前であろうと、言うぐらいな頂き方が出来させて頂いた、ら私は有り難い。 結局私共が、このおへぎぐらいな受物で、このすずり箱の様なおかげを、願うても頂けれる筈がないでしょうが。
 どうぞ信心のおかげを下さい、というても100斤しか持ちきらなかったら下さった後の900斤は、置いて行かなければならんでしょうが。そこで力も与えて下さらなければならない、入れ物も大きゅうして下さらなければならない、そういう働きがです、私共に何時も絶えずあっておる。しかもそれが一遍にだぁとなさるのではなくて、片一方にはこう頭をなでさすりをする様なふうにして下さるかと思うと。
 片一方には穴を叩いて頑張れ、頑張れというて、下さっておる様なところもある。さぁここが信心ぞと、いう下さっておるところもある。かというと私ぐらいな者の信心にかくまで神様がおかげを下さってと言う様にです、おかげを下さっておる所もある、そこんところをです、私共が一つ頂いて始めに申しあげました様に、信心をしておって変わった事が起こってきたらです、おかげと心得る、もう思い込ませて頂けれる、信心にならなければいけないってね。
 そしてもう例えば泥棒だといわれても、乞食だと言われても、昨日、十三日会で秋永先生が言ってましたですね、椛目対まあ隣接教会やらの場合でも、昔は椛目の方の者が皆それは決まって一つの事に対して腹をかきよった、ところがこのごろ、ははぁまぁなげなんことは、どうでんよかがっち、いう言うごつなって来た、もうそれだけ椛目的な全部が大きくなってると言う事なんです、心の中じゃおかしいぐらい、ね、
 一つの問題が起きてもです。ですから椛目がそれだけ大きくなったと言う事に、いわばなるわけなんです、なら個人の場合だって理屈は同じ事なんです。ね。もう本当に信心しとって、信心のなかもんかげんどうかちょっとこいういわれたぐらいで顔色変えてから腹かくような人達がある、こうやっては信心を頂いておる値打ちはもうサラサラないです。ね。それこそ、神様も歯がゆい思いをなさる事だろうとこう思うです。ね、大きなおかげを願わせて頂いておってから心がこぉまい、けし粒のごたる。
 ですから本当に例えて言うならば、本当にこらえられないもう辛抱は出来ない、是は一つ親父が、その家内がそう言う言われたんならです、親父が向こうに乗り込んで言ってでも、あんた妙なこつ言うばいのうち言うてから、言うて行ったっちゃ良かろうごたる、その中にあってもです、本当その立場になったら情けない事であろうとこう思うですたい、ね、けれども、信心をさせて頂いておればこれをいわゆる。
 公に心の字で受けさせて頂き、その事とても神様が知らんうちに起きておるのじゃないって、神様はご承知の中に、いや、神様のご都合の中に糸偏である、繋がりがあってこういうことがあっておるであるから、片一方のゆう子さんの事も神様の繋がりであるならば、そういうような事をいわれると言う事も神様のつながりのであると言う事。ね。そして、いよいよ豊な心を頂かせてもろうて、豊なおかげ、ね、大きな心にならせて頂いて、大きなおかげを頂かせて頂かなければならんと思うですね。
   どうぞ。